アムリタ

吉本ばななさんの「アムリタ」を読みました。

アムリタ〈上〉 (角川文庫)

アムリタ〈上〉 (角川文庫)

アムリタ〈下〉 (角川文庫)

アムリタ〈下〉 (角川文庫)


駅のホームでスーツの酔っ払いがスーツの酔っ払いの胸倉掴んで、「おう?おう!」と前後にこれでもかというぐらいにぐらぐら揺らしていて、揺らされた酔っ払いは酔っ払っているもんだから、そんな激しい前後運動に耐えられることもなく、胸倉掴んだ手にゲロをぶちまけ、「ウィー!」なんてニヤニヤ顔。胸倉掴んでいた酔っ払いは「きゃ!」と叫び、ゲロでまみれた肘でそのゲロを吐いた酔っ払いの横っ面に三沢ばりのエルボーをくらわした。

エルボーくらった酔っ払いは倒れてもまだ「ウィー!」なんて言ってるし、エルボーをかました酔っ払いは「けへへ」と悪魔みたいな薄気味悪い笑いをしている。

なんて嫌な世の中なんだろうか。その光景を見て、あまりに不快になったから、この不快さを解消するために、とびっきりやさしい本を読みたいと思った。思った結果手にしたのがこの本だった。


この本を購入するのは2度目となる。最初に買ったのはたしか高校生の頃。読み終わった後に「人間っていいもんだな」なんて思わせるほど、極上のやさしい気持ちになれる本だったと記憶しているから、この不快感を払底するために駅の本屋で購入。

少し不安でもあった。その不安とは、「この本を読んでもなにも感じなかったらどうしよう」というもの。高校生のときはあんなに極上のやさしさに包まれたのに、今読んだらぜんぜんやさしい気持ちになれなかったら、それって悲しいことだなと。


結論を述べればやさしい気持ちになれました。真冬にホットコーヒーを飲んだような「ホッ」とした感じになれました。

だが高校生のときに読んだときよりもその感動の度合いは少ない。それは10年くらい前とはいえ、一度読んでいる本だからということもあるし、なにより年をとったというのが一番大きいのかもしれない。

年を取ったから感動をしなくなるということではない。高校生のときは「なんてやさしい本なんだ。まるで向日葵みたいな本だ」なんてぼんやりとした感想だったように記憶している。なぜ自分がこんなにもやさしい気持ちになれるのかを、自分に説明できなかったが、改めて今になって読み返してみると、このやさしさは「容認」から来るやさしさではないかと自分なりに自分に噛み砕いて説明ができたから、前に読んだときほど感動はしなかったのだと思う。


そう、この本の主人公は「容認」する。抗わない、選ばない、否定しない。時の流れに身を委ね、その結果として得たもの、失ったものを受け入れる。大きな事故に遭い、記憶が定かでなくなっても、その自分を受け入れる。弟が超越した力(未来を漠然と予測できたり、周りの人に見えない聞こえないものが分かったりといったもの)を覚醒し、その事実を突きつけられても、受け入れる。否定をしないで、認めて受け止めるから諦めるとは違う。やさしい気持ちになれるわけだ。


でもやっぱり、高校生のときに読んだときと、今この年になって読み返すのとでは、高校生のときに読んだときのほうが圧倒的に読後感はいい。「なんかよくわかんないけどすげえ!」とか「なんかよくわかんないけど楽しい!」とか「なんかよくわかんないけど泣ける!」といったなんで自分がそう思っているのか理解できないけど、理屈を抜きにして感動するっていうのが一番心に残るし、一番心に響くように思える。


なんか年を取る毎に、理屈で自分の体が徐々にコーティングされていって、感動することがあっても理屈を通らずに心まで届くことがどんどん減っていってるような気がする。例えば、今はまだ右足の裏は理屈コーティングされてないけど、来年にはもうそこもコーティングされてるかもみたいな。悲しいことですね。どんなアブノーマルなルートでもいいから理屈を抜きにした感動が欲しいですわ。ちゃ〜。